以前のわたしなら、「不食(食べずに人は生きる人)」など存在するはずがない!と思っていたのだけど…。
最近は、「確かに常識では考えられないけれど、そんなことも、できるのかもしれない」と思うようになった。
不食はひとつのアセンションの形かもしれない
というのも、わたしたち夫婦は、2013年秋くらいから、断食とか少食とかデトックスというテーマに取り組んできた。
きっかけは、パートナーのパニック症改善が目的でした。
長島一茂さんの「乗るのが怖い わたしのパニック障害克服法」に、断食とか少食によって心の不安や自律神経の乱れが軽減されるというような事が書いてあり、
「薬を飲み続けても治らない。なら、ダメもとで試してみよう!」と思ったから。
最初は、正直、「ご飯を減らさなきゃ」とか「食べちゃダメ」とか、「やらなければ」という気持ちが強くて、急激にパンを10個くらい一気に食べたり…な日もあったし。
でも、不思議と、体重は一時は落ちたけれども、その後は自分にとってベストな体重は維持できているし。
以前は本当に体力が無くて、外出した後は、少し、お布団で横にならないと動けなかったわたしが、今は、外出直後でも、サクサク動けるくらい元気。
そして、なんといっても市の健康診断で血圧が140もあり「血圧計を家に準備したほうがいいです!」とまで言われてたのに、124くらいと、かなり正常になってきたのが嬉しい。
そんな中で、胃のサイズもミニマムになったのか?
例えば、外食の際によくある「なんとか定食」とか「なんとか丼」とか「なんとかコース」一人前を、夫婦ふたりでシェアして、ちょうどいい感じになってきた。
そして、味覚も変わり、コンビニに行っても、「これが食べたい」というものが少なくなってきた。
いつしかマインドも変わり、「食べられないと窮屈」という感じでは無く、「食べたければ食べるし、美味しそうなものがなければ食べなくてもいい」という感じになってきました。
最近、不食実践家の三人が書いた「食べない人たち(ビヨンド)」という本を読みました。
人は物質的な食物を摂取しなくても生きる事ができる。
不食とは何も食べないことではありません。
物質的な食物の代わりにプラーナ(目に見えないエネルギー)を食べているのです。
通常、わたしたちは食事をするとき、食べ物を介してこのプラーナ(光、気)も一緒にいただいているのだそうです。
ただ、そのプラーナの摂取方法が食物から摂るか?直接摂るか?の違いだけなのだそうです。
そして、それは「誰にでもできること」とも書いてありました。
読んだとき、これは「新しい人類の進化の形なのではないか?」と感じました。
昔の人よりも、現代の若者は背が高いということも、歯の本数も少ないという変化も、草食男子が多くなってきたという変化も、不食も、形が違うけれども、「新しい人類」なのではないかな。
スピリチュアルな世界の言葉で言えば、「アセンション」というのでしょうか。
もしかしたら、この不食実践者三名以前にこの世を生きた人の中にも、食物からのエネルギーに頼らず、何か違う形でエネルギーを肉体に取り入れて生きていた人はいるのかもしれない。
ただ、時代が今、それに注目して、書籍などによって、そういう人たちの存在を知ることができるようになった。
そういう時代になったこと自体も「人々がアセンションし始めている」のかもしれないし。
私自身は「不食」を目指す?
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「不食はあり得る」とは思うけれど、私自身は、まったく何も食べない生活は、嫌だな。
カフェでまったりするのが好きだし、甘いものも大好き。
それに、やっぱり、食事は人生の楽しみ、アクティビティだと思う。
バラエティーな食材、色合い、調理法、見ていても楽しいし、旅に行っても「そこの土地のおいしいもの」がどこにでも存在するし、それを食べる醍醐味というのがあります。
そして、「同じ釜の飯」という言葉があるように、食事を共にすることで人間関係をうまくいかせるようなマジックが食事にはあると思う。
でも、この本の秋山弁護士の「不食」に対するスタンスはすごく好きかも。
特に「不食」は人生で大きなウエイトを占めているわけではない。
不食になると、食べる自由と食べない自由の両方が選べる。
食べなくても平気だし、食べたければ食べても平気。
でも、不食はお金がかからず、誰もが豊かになります。
生活費は以前の三分の一ほど。まさにいいことずくめです。
お金もかからず、時間もたっぷり、生活費をガンガン稼ぐ必要もない。
そういう「不食」には、ちょっと憧れたりもします。
■秋山弁護士にお会いしました!の記事はこちら
不食 秋山弁護士の講演会に行ってきました